末の松山
掲載日:2014.03.27
お正月の百人一首のカルタ、北海道ではトランプくらいの大きさの木の板の札を取り合います。
札には、下の句が独特のうねうねとした文字で書かれています。最初のところの大きな字がひらがなだと、子供にも分かりやすく人気でした。「あまの」「うしと」「さしも」「ぬれ」「みそ」などと歌の内容には全く関せず、奪い合ったものです。
小学校で習うような漢字の句も、取りやすい札でした。ちょっと大人になったような気分も味わえました。きれいなお姉さんのことのような「乙女の」が一番人気でしたが、札全体に読みやすい「末の松山」も私は好きでした。
「末の松山波越さじとは」。上の句も知らないまま、都から遠い四国の方に船で行くような歌か、左遷?と勝手に思い込んでいましたが、最近この歌について新聞で読んで驚きました。
末の松山は、四国の愛媛県ではなく宮城県に実在している、小さな丘でした。今も2本の松の木が立っています。その歌が詠まれた50年ほど前に、東北地方を巨大地震(貞観地震869年)が襲いましたが、津波は「末の松山」を越えなかったことが永く広く伝えられてきまたのです。
3年前の東日本大震災の津波も、この丘を越えませんでした。丘の下の建物は水に浸かったけれど、伝えられたように丘に逃げた人は生き延びたのでした。
百人一首の歌は、私の思い込みとは全然違って「僕らの愛は永遠に、末の松山みたいに大丈夫だって約束したよね」のような内容だそう。恋愛の恨み言に災害を持ち出すのは、ちょっと不謹慎なような気もします。
でも、愛される歌集に選ばれて、繰り返し口にされることで、重要な言葉を伝える使命を果たしてきたのかもしれませんね。